
代表取締役
秋山 昌也
MASAYA AKIYAMA
1973年10月17日東京生まれ。横浜市育ち。
MSY株式会社代表取締役。
Chapter 1 嘘つかない×人に迷惑かけない×金出さない
自由な国の三つの掟。
僕の父は、元々クルマのセールスマンで、昔はアメ車を売っていました。建設会社の社長といえば、みんな黙ってキャデラックを買うという時代。ただ、父はベンツやBMWがすごく好きで、独立して自分の店を出したら欧州車をメインに扱っていくと、だいぶ前から決めていたそうです。
父が創業した1973年10月17日というのは、僕が生まれた日でもありますけど、世の中的には、まさにオイルショックが始まった翌日(註:1973年10月16日に始まった第四次中東戦争により、これ以降続々と原油価格が各国で引き上げられた)。そういう意味でいうと、彼もまたキュレーターなんですよ。アメ車全盛だった時代に、“これからは燃費の悪いアメ車じゃなくて欧州車だ”という提案を、いち早くしていたわけですから。
在庫の台数もぎりぎりまでセレクトしていくことに意味があると考えていて、店に置いてあるのは6台から、多くても10台くらいまで。店舗も絶対に増やさなかった。もっと言えば“このクルマは、このシリーズのこの色、このシートが絶対にいいんだ”という自分なりの美学をもっていて、それを絶対に変えなかった。
父親からの影響は、ものすごく受けてると思います。まず、家に乗って帰ってくるクルマが、わけがわからなかった(笑)。毎日違う外車で、たまに国産だなと思うと、西部警察に出てくるフェアレディZのガルウィング仕様だったりする。そういうのが毎日ですから、子どもにしてみたら楽しいと同時に“ウチって一体なんなんだろう”って思いますよ。父には、帰ってくると、よく家のまわりを一周してもらったりしてました。もちろん、すごく楽しかったです。
それ以外にも、家庭環境というか、両親から受け継いでるものっていうのは、かなり大きいですね。といっても、しつけは全然厳しくなかった。むしろ、めちゃくちゃ自由でした。ウチの教育に関するポリシーって三つしかなくて、「嘘つかない」「人に迷惑かけない」「金出さない」って、これだけ。今考えてもすごく理にかなっていて、精査されたポリシーだと思いますけど、とにかくこの三つさえ守れば、あとは何やってもいいっていうことになってました。だから、僕が会社員やめたって事後報告したときも、弟がストリートミュージシャンやってたときも、両親とも、一言も文句言わなかったです。
子供の頃は、家が商売やってても、裕福だみたいな感覚はまったくなくて、くれる小遣いにしても、人より必ずちょっと少なかったんです。それ以外のことでも、金に対する教育って、すごく厳しかった。たとえば、どうしても欲しいものがあるとすると、「なぜ、それが必要なのか」という理由を、親に対してプレゼンしなきゃいけない。プレゼンが弱いと、買ってもらえないんです(笑)。どんなに他愛のない理由でも、「なぜ」を、きちんと伝えないといけない。で、プレゼン成功しても、くれるお金は、やっぱりちょっと少ないんですね。常に満足できない状況におかれていたわけで、そこは工夫と、自分なりの自己主張で補っていけと。今思うと、それはとても良いことだったんじゃないかと思います。そういう教育については、ものすごく感謝してますね。
ガジェット好きも父親の影響です。彼はソニーのハンディカムとか、電気製品もすごく好きでしたし、モノを選ぶセンスも良かった。それが家中に散らばってたわけですから、これは影響受けますよね。それ以外でも、ものに対する細かいこだわりとか、毎日聞いてるわけです。「BMWのここがいいんだ」とか、「SONYっていったらVHSじゃなくてベータで、その理由はこうなんだ」とか(笑)。そういう持論をリビングで、小さいときから死ぬほど聞かされてるわけです。
あとは、家のリビングにあったダイニングテーブルがイチイの一刀彫りで彫られたものだったりとか。これなんか、完全に今のCOLORS(註:Real Wood Caseは天然木の一刀彫り。ラインナップにはイチイも含まれている)につながってくる話で、無意識の記憶、恐るべしみたいなエピソード。「飛騨高山で見たときに、懐かしく感じたのは、だからだったんだ……」みたいなことは、全部あとからわかったことなんですけどね。そういうことが、思い出してみると結構ある。子供の頃、当たり前に感じて、触れていたものが、じつはかなり個性的だったというのは、やはり環境として、すごく恵まれていたと思います。
Chapter 2 外タレ×西海岸×バックパッカー
目標のある、目的のない旅。
高校時代は、ひたすら部活(サッカー部)という生活だったので、世の中の流行とかまったく知らなかったです。合コン行っても、サッカーのことしか喋ることがないし、普段の会話も、ほとんどサッカー関係のボキャブラリーでしか語れない。「そこはプレスかけるとこでしょ」とか「サッカーで例えたら、そこはやっぱりワントップだよね」とか。そういう、じつにだめな男でしたね(笑)。だから、’80年代後半から’90年代始めくらいの出来事って、僕のなかではまったく抜け落ちてます。テレビも見ないし、音楽も聴かない。世の中がバブルで景気がよかったとか、そういうことも、まったく知らなかった。今振り返って見ると、これもいいことのひとつだったと思います。
大学のときにコンサートのバイトがあるからって誘われたのが、ウドー(音楽事務所)系の会社。そしたらそれにハマってしまって、ほとんど学校に行かなくなってしまった。何にそんなにハマったかというと、ウドーがコンサートに呼ぶアーティストって、往年のアーティストが多いでしょう。それがものすごく懐かしかったんですね。それに、それまでひたすら部活だったので、下界というか、久しぶりに娑婆に出たという気がした。
その憧れのミュージシャンが目の前にいて、バックステージをふらふらしてる。クルーの人たちも、同じスタッフという感覚で、ものすごくフランクに接してくれる。そういうのが、ものすごくいいなと思いました。あの自由奔放さと、垣根のない感じが、僕にはものすごく合ったんですね。これはもう、学校なんて行ってる場合じゃないぞと。
スティング、ミスター・ビッグ、ディープ・パープルとか、バイトでスタッフやってるうちに、サブチーフ、チーフと自分のポジションも上がってきて、トランシーバーもってバックステージにいる時間が増えてくる。そういうのも楽しかったです。とにかく学生のときにバックステージ、「作る側」から仕事の世界を見てしまったというのは、大きかった。あと、僕はバミり(註:業界用語で立ち位置などを示すテープを貼ること)とか、ケーブルのバビり養生(註:同上。テープでシールドや各種ケーブル類をまとめること)とか、そういう地味な作業がすごく好きで、いい捌き方できると、なんか気分がいいっていうタイプだったんですね。また、それを認めてくれる人がいて、「ステージ上手〈かみて〉のバビり、秋山頼むわ」なんてわざわざ頼まれたりする。すっごく小さいことなんだけど、人から必要とされてることに、ものすごく意義を感じて頑張れた。元々そういうところがあるんです。
ウドーのオペレーションっていうのは、各部署に一線級のプロがいたので、言われる前に自主的にやってる準備とか、仕事の速さとか、とにかく半端なかったです。「これくらい、言わなくてもわかってるよね」っていう暗黙の了解がすごく多くて、またそのレベルも高いんですね。で、作業をさっさと終わらせて、リハが始まるまでコーヒー飲んで、向こうのクルーとダベってる。これは衝撃的でした。外資系、精鋭スタッフの能力ってすごいぞと。本当にグリーンベレーとか、傭兵部隊みたいな仕事ぶりでした。
じつは高校卒業するときにアメリカの大学に行きたいって親に言ったんですけど、そのときはプレゼンが弱くて却下されたんです(笑)。それで、大学入ってからウドーのバイトで貯めた金でバックパッカーとして世界中あちこち旅するようになりました。最初の憧れは、なぜかアメリカ西海岸だったので、すぐにロスアンゼルス行って、ビーチサイドをサンディエゴからメキシコまでずっと下っていった。そこでメキシコに触れたことで(意識が)アジアに引っ張られたんですね。ここまで激しいギャップがあるのかっていうことが、とにかく衝撃的だった。そこからはアジア一辺倒です。
アジアで最初に行ったのは香港で、それからタイ、ベトナム、ラオス、ミャンマー、インド。とくにインドには、多カルチャーの国のなかでも、とにかく異質というか、深いものを感じて、すっかりハマってしまった。単純にキレイとか、ちょっとしたギャップが愉しめるとか、そういうレベルじゃなかったです。みんな靴なんてもの、最初から履いてないし、現地に住み着いているバックパッカーにしても、他とは比較にならないくらい濃かった。
そんなとき、タイで一年間何もしないで過ごしているっていう、ある日本人に出会ったわけです。バンコクには、日本人バックパッカーたちが溜まっている場所があるんですけど、その人は一年間暮らすのに必要なお金だけ貯めて、そこで何もしないで過ごしている。宿も一日100円とか200円くらいで、鍵もしまらないようなところなんだけど、その宿代も入れて30万くらいあれば実際、何もしなくても一年なんとかなってしまうんですね。目的とか、とくにあるわけじゃない。毎日、何もしない。それを見たときに「これは一体、どういう人生なんだろう」と思ってしまった。
そのとき、なぜか思い出したのは、アメリカの西海岸行ったときに出会ったスイス人の女の子のことでした。彼女は「自分は社会に出る前に自分の大陸とは違う場所へ行って何かを見つけたい。その上で社会に出て働きたいんだ」と言ってました。「日本っていい国よね」とか言われて、それは当時の僕からしてみたら、完全に逆カルチャーショックですよね。外から見たら、日本ってそんなふうに見えてるのかっていう。
海外の人たちと会って話をすると、そういう外からの目線というか、自分とまったく違うものの考え方をしてるんだってことが、とにかく新鮮でした。自分が動けば動くほど、今まで知らなかった情報が、ちょっとずつ入ってきて、そういうなかで考えさせられることって、とても多かったと思います。
言い換えれば、海外で目的がある人と、ない人の違いを見て比べたとき、目的がある人の方が、僕は好きだと思った。
Chapter 3 特長×弱点×モチベーション
自分自身との超真面目な禅問答。
大学のときは、ほとんど学校行かずにコンサートのバイトしてるか、バックパッキングであちこち旅してるかっていう感じだったんですけど、色々なものを見たり、人と出会ったりするなかで、漠然と「このまま社会に出るのは怖いな」とも感じていたんです。それで、旅をしながら「社会に出るってどういうことなんだろう」って、なんとなく考え始めました。社会に出ると、今までの「お金を使う」立場から「働いてお金をもらう」立場に変わってくる。だけど、現実問題として社会に出るっていうことになると、何をしてお金もらったらいいのか、まったくわからなかったんですね。手段も、何をしたらいいかも、まったくわからないわけです。
「ウドーでコンサートスタッフのバイトしてきました」「バックパッキングであちこち旅してきました」、それだけじゃオレ、なんの役にもたたんぞと。それが怖くて、悩みに悩んで、結局一年留年したんですよ。就職セミナーとか、ガイダンスなんていうのも、まったく行かなかったです。だって、自分のことがわかってないんだから、そんなものに行ったって、まったく意味がないでしょう。でも、そんなことを考えてるヤツって僕のまわりにはいなくて、そういう悩みって誰にも話せなかったです。
とにかく自問自答して、深いところで自分と向かい合ってみたら、自分って人間は、全然大したことないってことに、わりと早い段階で気がついた。だったら社会に出るまでにわかっていなきゃいけないのは、自分のストロング・ポイント=長所、それから弱点、このふたつを見つけることで、これがわかってなかったら、何も応用きかねえぞって思ったんですね。でもそれは当時の僕にとっては、かなり難しい作業でした。
「オレ、何だったら一生できるんだ」って突き詰めて考えて、一年後に出てきた答えっていうのが「人が好きだ」ってことだったんです。どうせ一生仕事するんだったら、バックパッカーで旅してるときみたいに、常に人と出会って、コミュニケーションできる仕事がいい。知らない人に会いに行きたい、毎日人と出会いたい。そういう仕事を社会でするとなると、それは営業っていうのかな、と。
当時は「クルマは一家に一台から一人一台の時代へ」なんて言われてましたから、クルマに関わる仕事も案外いいかもしれない、なんて思いました。となると、シェア一位はトヨタなんだよなと。シェア一位の会社に入りたいわけじゃなくて、シェア一位なんだから、一番色んな人と会えるんじゃないかっていう、完全に真逆の発想です。同じ理由でシロアリ駆除の会社もいいかな、なんて思ってました。あれも、色んな家に行って、飛び込み営業できますからね。家の数だけ、出会いのチャンスがある。
より多くの人に出会うためには、クルマやるならトヨタ、そのなかでも一番上のセルシオ、クラウンからカローラまで全部扱ってるトヨタ店がいい。あとは、できれば自分の街で働きたい。僕、自分が生まれ育った横浜っていう街が大好きでしたから。当時はみんなトレンディな街----渋谷がいいとか、銀座がいいとかいう人が多くて、自分の街で働きたいなんてヤツは、誰もいなかったですけどね。
就職活動は結局、神奈川トヨタ一社しか受けなかったです。それなのに「これだけ精査して選んでるんだから、オレは入社できて当然だろう」みたいに思ってました。今考えると、あんなぎりぎりの時期に一社しか受けないなんて言ってる変わり者(しかも偉そうな!)を、よく採ってくれたと思います。
配属されたのは、横浜市都筑区の池辺(いけのべ)町っていうクルマ屋さんとか、工場ばっかりの営業所。お客さんは法人ばっかりで、しかも飛び込み専門です。先輩から「トヨタ以外のクルマ乗ってる法人に営業いってこい」って言われてましたから、マツダとか日産使ってる会社に、毎日行くわけです。一日100件とか自分で勝手にノルマ決めて。
そうすると、クルマ買ってもらえなくても、そこの社長から、生の話が聞けたりするんですね。「鉄鋼はいまこうだ」「建設はこうなってる」「農家ってじつは大変なのよ」とか、とにかく生の情報が聞ける。それも中小企業レベルの話だから、ものすごくリアルなんですよ。その受け売りだけでも、ものすごい情報密度というか。だから思ってましたよね、新聞に書いてあることって現実と全然違うじゃん、間違ってるじゃんって。情報は足で取ってくる。この考え方は、今もまったく同じです。
量から質へつなげていこうという意識は、最初からもってました。営業やってた最後の一年間は、“こんにちは、トヨタです”って言ってからは、クルマの話は一切しないって自分ルールをきめて、それで考えるわけです、クルマ買ってくださいって言わないでコミュニケーション成り立たせるためには、どうしたらいいか(笑)。わけわからない営業手法。でも、そういうやり方でやった方が売れるのか、それとも、そうじゃないのか、そういうことに僕は、すごく興味があった。で、実際にそれで一年間やってみた結果、数字としては変わらなかったんです。
それなら、“クルマ買ってください”って言わないで営業した方が、コミュニケーションは、ものすごく深くなるわけでしょう。「秋山くん、どうせ一人暮らしなんだっだら、ウチで晩飯食ってくか」なんて言われて、人の家で食事してる方が、僕としては楽しいわけだから。
百何十人いた同期のなかで、唯一僕と仕事観が合ったのって、梅沢隆文だけだったんです。梅沢とは毎晩ファミレスで、フリードリンク飲みながら、よくああでもないこうでもないってビジネスについて一緒に話し合ってました。で、会社辞めようってなったときに、いきなり一緒に何かやるんじゃなくて、とりあえず百万貯めて、バックパッキングの旅に出ようじゃないかと。お互いに世界を半周して、ちょうど真ん中で会おうっていって、二人とも年末に辞めることにしたんです。それで、辞表と「大好きな神奈川トヨタ」っていう作文書いて、店長のところにもっていきました。入社して二年目の年末のことです。
Chapter 4 出会い×導き×恩返し
社会に還元するという、あたらしい発想。
辞表書いてもっていったものの、僕も梅沢もすぐに辞めることはできませんでした。僕の場合は、営業所の店長が「会社辞めるんだったら、社長に会って色々話してきたらどうかな」って言うんですよ。いや、辞める人間が、そんなことできませんって言ったら、じつはもうアポイント取ってあるんだと(笑)。それで、指定された日に神奈川トヨタの本社ビル(註:みなとみらいにあるmyx=マイクス)に行きました。超緊張して。
そしたら当時の上野社長(現神奈川トヨタ会長・上野健彦さん)が、延々4時間、経営のことを僕に教えてくれたんです。信じられないですよね、辞めるっていう社員、それも入ってたかだか三年目くらいの若造に、社長が4時間もつきっきりで話してくれるんですから。めちゃくちゃ楽しかったですけど、話聞きながら、「普通だったらこういうの、あり得ないよな」って思ってました。
結局、一年後に「やっぱり辞めます」っていうことで退職したわけなんですが、上野社長や営業所の店長、退職する前の一年間、本社事業部でお世話になった方々----こういった経験をさせてくれた人たちに対しては、いくら感謝しても感謝しきれないです。
そのときにつくづく感じました。僕という人間は、いつも人に助けられて生きているんだと。振り返ってみると、いつもそうなんです。小学校、中学校、高校の先生、新入社員研修のインストラクター、神奈川トヨタの店長、それから社長。僕は常に人生の節目節目で、生き方を大きく左右するようなメンター(師)に出会う。自分が消化しきれてないものにぶつかったときに、それに対する導きがあって、欠けてる部分が埋まっていくんです。
「人にこだわりたい」というのは、だからなんですよ。僕という人間は、まわりにいる人に支えられて、それでなんとか成り立っている。ものすごく恵まれてると思います。だからこそ、恩返ししたい。それも、お世話になった人たちにだけ恩返しするんじゃなく、ビジネスというものを通して、その人たちも含めた「社会全体」に返したい。
それはモノ作りかもしれないし、今までになかったビジネスの仕組みづくりかもしれない。もしかしたら、まだ見えていない何かかもしれない。僕がやっていることというのは、最終的に全部そこに還元されていくんですね。数字だけ追っても意味がない。いくら売れても、ただモノが売れてるだけじゃ意味がない。そこに人がいなかったら、僕にとってはビジネスやってる意味がないんです。きれいごととかじゃなく、本気でそう思ってます。
MSYという会社は、世の中的にはおそらく「プロダクトを作っている会社」だと思われているでしょう。でも僕にとっては、一番大切なことって、モノを作って売ることじゃない。人と環境に対して、意味のあることをする。人にフォーカスする。昔から、これだけしかやってこなかった。こう言うと、なんだか難しいことのようですけど、それって要するに「社会のなかで役に立つ」「人に喜んでもらえる」そういうことですね。それを踏まえた上で、今やるべきことって何なのか、それをしなければならない意味って何なのか、そういったすべてのことを精査していく。そのために、まず最初にすべきなのはユーザー、つまり一般の人の立場に立つことだと、僕は信じています。
既存のマーケットは、残念ながらメーカーの論理でできあがっています。たとえばコスト、たとえば流通、たとえばマーケティング。こういったものに縛られて、いまやユーザーのことなんて、まったく見えなくなっている。だからこそMSYは、そうした既成概念にとらわれず、徹底的にユーザーの視点に立って、すべてを発想していきたい。欲しいものがなければ作ればいい。それと同じように、マーケットのあり方が間違っているなら、新しいマーケットを作ればいいんです。そして、そのマーケット、あるいはユーザー像というのは、誰もまだ気づいていないポテンシャル(潜在)領域のものでありたい。
その上でコアなユーザーから「そうそう、やっぱりこれじゃなきゃ、ダメなんだよね」と言ってもらえたなら、それだけでブランドは成り立つし、そうしたユーザーとの関係性こそ、僕らが求めているものだと思う。
深夜のファミレスで、梅沢とよく話していたことですが、僕らは起業して会社を作ることが目的じゃありませんでした。二人ともバックパッカーだったから、人と情報が一瞬だけ深く関わる場所、たとえばホテルなんて作れたらいいね、と話していたんです。起業から10年目を迎えましたが、その姿勢は今も同じです。もしかすると来年は、食に関することをやっているかもしれないし、10年後には本当にホテルを作っているのかもしれない。まったくわかりません。最初からあって、最後にも残るのは、常に人。これからも、そこだけを見て、僕らにしかできない仕事をしていきたいと思っています。
〈2013年5月30日 MSY本社にて〉